『 ねむたいね 』

写真家・沙汰優による初の写真集制作と、それに伴う写真展。

2021年冬から2022年の春にかけて一人の人物を中心に、自己の感情の記録として写真を撮り続けました。
撮影期間は一つの季節と、そう長くはありません。しかし、この作品は、これまでの私という表現も過言ではない程、写真家・沙汰優を超えて私自身が写し出されています。

https://motion-gallery.net/projects/satayu1214

目次

・写真集について

・写真展について


・沙汰優の視点

 ・なぜ作品を作るのか

 ・作品『ねむたいね』について


・最後に

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▷ 写真集について

写真 : 沙汰優[@satayu1214]
被写体: 炉 [@irori_ori]
翻訳 : Yuma Numai

発売日: 2022年11月18日 
価格 : 3500円  
サイズ: H180×W220mm
ページ: 190ページ
製本 : PUR製本

『 ねむたいね 』

「あれは夢だったのではないか」ふと記憶を思い返した時、そんな風に思うことがある。
美しければ美しいほどに、大切ならば大切なほどにそう思う。
その度に写真は記憶の事実を提示してくれる。不確かで曖昧だが強くそこに在る。 
写真を見返してみれば、美しくも醜い、その瞬間の等身大の心が残っている。
もうここにはない輝かしさや狂おしさ、刹那的な時間。
そのどれもが言葉を用いるには惜しいほど、尊いものだ。
風景も、音も、匂いも、人も、心も、わたしだけの光だった。 ” 

『 somnolence of us 』

I occasionally think to myself “That would have been a dream” when I reminisce on my memory.
The more beautiful it is, the more meaningful it is, the more I think so.
Each time I think back on my recollection, photographs tell me the fact of the memory.
It is uncertain and unclear, but it is there undoubtedly.
When I look back at my photographs,
I am left with life-sized heart of that moment, ugly and beautiful.
The brilliance, the madness, and the momentary time.
All of them are no longer here, and too precious to use words.
The sights, sounds, smells, people and hearts in the photographs were my very own light. ” 

(『ねむたいね』あとがき より )

・写真集『ねむたいね』ご購入方法

 クラウドファンディング(10/31日まで)又は、展示会場でご購入できます。
 展示での販売は、在庫が無くなり次第終了となります。
 増刷の予定は、今の所ありません。


写真集ご購入の方はこちらから↓
https://motion-gallery.net/projects/satayu1214

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▷ 写真展について


会期 11月18日(金) 12:00-19:00

   11月19日(土) 12:00-19:00

   11月20日(日) 12:00-17:00
 
   ※最終日のみ17時までとなります

会場 zakura 渋谷駅から徒歩5分
   https://goo.gl/maps/kuWUR2hg9465wYZ28

 

全日在廊しておりますので、お気軽にお声がけください。

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▷ 沙汰優の視点

沙汰優

2001年神奈川県生まれ。20歳の写真家。
フィルムカメラで写真を撮っている。
写真を撮ることは心の記録をする行為として、主にポートレートや風景などを被写体としている。

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・なぜ作品を作るのか

なぜ私は作品をつくるのか。

それは感情を残したいという気持ちと、誰かと共鳴したいという気持ちがあるからです。

私達は他者と意思疎通を図る為に、言葉を用います。その言葉はいわばチューニングされた言葉です。感情や思考のように複雑で難解な存在を、そのまま言葉にすることは難しいように思います。それは言葉にすることで形を持たなかった感情や思考が、その言葉へと輪郭を変えてしまうからです。

喜びと名づければ喜びの形。 
怒りと名づければ怒りの形。 
悲しみと名づければ悲しみの形。

言葉の意味には共通認識があるので、その言葉の形をした感情や思考はその形から抜け出すことはできません。そうなった感情や思考は一つ壁を挟むみたいに、核心から遠ざかるような気がします。

それに対し作品は作者の意図や意味を開示しきらないことが多いです。その為、鑑賞者は自身の中で咀嚼をしたり、考察をしたり、感覚的に受け取ります。作品は言葉と対照的に輪郭を持たず、鑑賞者の中で輪郭が形成されるように思います。

また、作品には作り手の記憶や心の欠片が混じっていて、作品に触れたときに作り手の欠片と自らの心が深く共鳴することがあります。その際、作品を挟み作者と鑑賞者は間接的ではあるものの、チューニングされていない交信を行なっています。まるで心と心で交信しているみたいで愛おしく思う瞬間です。

作品に触れることで感じた「分かる」という気持ちはとても尊いもので、共鳴することによってその思考や感情が自分の中だけで死なずに済んだと思います。

私が誰かの作品と共鳴したように、 私は写真を通し誰かの心と繋がりたいと思っています。「ここに居る」ぼくはそう言わなくてはいけません。その為に写真を届け続けるし、その先で誰かの心に流れ着いたらいいと思います。

そうして誰かの元で再生された私の写真は、心は、形を変えて光続けていくような気がします。祈りのように不確かなものではありますが、やめてはいけないと思っています。

今回の「ねむたいね」はその第一歩でもあります。

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・作品『ねむたいね』について

今回の作品『ねむたいね』は、2021年冬から2022年の春にかけて一人の人物を中心に、自己の感情の記録として写真を撮り続けたものです。約2000枚となる写真を整理し構成した写真集、『ねむたいね』を制作します。それに伴い写真集の一部を写真展にて展示します。

人に対する愛と執着。これが『ねむたいね』の起点となる感情です。

有難いことに、私の写真はあたたかい、優しいと仰っていただくことが多いです。
それは写真に写り込む愛だと思っています。

『ねむたいね』でもそれを感じていただけると思っております。
ただ、それと同時に気持ち悪さも感じるかもしれないと考えています。

3月のあたたかく、優しい季節。
そんな季節と対照的に浮き彫りとなったエゴ。
愛の裏腹に咲いたのは、赤黒く咲いた執着心。
優しい愛だけではいられない、もっとも私の人間らしさが表れた写真たち。

写真を撮ることは愛であり、エゴでもあるということを考える機会が今年に入ってから多くありました。ここで私の日記の一部を添付します。

2/1
写真はわたしにとって形のないもへの愛で、その記録であり証明。美しい言葉が、心が、光が、ひとつ、またひとつと失われてゆく。
それはとても自然的なことで、写真を撮る行為は、その自然的な流れを破壊するようにも思う。

2/4
写真を撮る行為は愛であると同時に、エゴでもあった。醜くて美しい、美しくて醜い。それは、綺麗な花をドライフラワーにすることや、可憐な蝶を標本にすることに似ている。


光と闇が表裏一体のように、愛とエゴもそのような関係にあるのだと考えています。
どちらか一方だということはなく、どちらも共存している『ねむたいね』
私の醜さも、その美しさも、人間らしい心が、写真には写っているので、それが伝わったらいいと思っています。

そして、ここに写る風景も、人も、心も、もう此処にはありません。
過ぎるのは一瞬で、私達は変わり続けていきます。
どんなに美しい瞬間も、あっという間に目の前を通り過ぎていく。

形あるものは、やがて失われ、変わらないものは無く、永遠も存在しません。

しかし、存在したという事実だけは消えることはなく、永遠なのです。
歴史に残ることも、誰かに知られることもないけれど、確かに存在していること。
私達は今生きていて、昨日交わした言葉も、眺めた海も、流した涙も、全て。
私達自身も、街も、みんなが忘れてしまう。
けれど、確かに此処に在ったという事実だけは永遠に残ります。

時間が過ぎてるというよりは、私達が過ぎ去っている。
時間は場所のようなものとして、ずっとその場所に存在しているのだと私は考えています。

『ねむたいね』はそんな場所のようなものです。

もう此処に無いけれど、確かに、あの瞬間存在していたものが、残っている場所。
『ねむたいね』を読み返せば、私はいつだって、あの時間を思い出すことができます。

決して綺麗なものだけではなかったけれど、あんなにも輝かしい瞬間を、あんなにも狂おしい心を、私は忘れたくない。言葉にすることを惜しむ程に美しいことなのです。

『ねむたいね』は、20歳までの私の思考や感情の一つの終着点にもなっています。
人生において、これは通過点でしかありませんが、10代の頃に私が探していた光が此処には確かに在ります。
ずっと暗闇の中、探していたあの頃の目的地は此処だったのだと信じています。

そして、『ねむたいね』が私だけでなく、誰かの心の場所のように寄り添うことができたらと思っております。

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▷ 最後に

ここまでご覧いただきありがとうございます。

写真を撮り続けてきて形にしたいと以前からずっと考えていましたが実現できませんでした。そのような中で今回の作品『ねむたいね』は、しなければいけないという気持ちが強くあります。

自分の中にある何か大事なものが終わってしまう前に形にしなくては意味がなくなってしまうので、今やらなきゃいけないと確信しています。また、純度の高いものを届けるからこそ誰かに届くようにも思います。

作品を制作するにあたり、今回はクラウドファンディングを実施させて頂きました。
本気で制作に取り掛かっておりますので、形となった写真を一人でも多くの方に届けたいです。そして微かな欠片であっても誰かの元で光続いて欲しいです。

その為にも、どうか皆さまのお力を貸してください。

よろしくお願い致します。

https://motion-gallery.net/projects/satayu1214

沙汰優

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